他人をけなす会話しか知らない人がいるということ【管理人の母の話】







ごきげんよう、管理人です。

今回は私自身の母親の話をさせていただきます。

人付き合い⑪をまとめていて、書きたくなりました。

思いのほか長くなりました。そして8割方私の想像です。

よろしければお付き合いください。

他人をけなす会話しか知らない人

これは私の母親のことです。

  • 相手を馬鹿にすることでしか、場を和ませる(と勘違いしている)方法を知らない。
  • 相手をけなせば笑ってもらえる。
  • 相手との会話のキャッチボールがうまくできないから、相手や、その場にいない人への不平不満に頼る。

 

…これが、彼ら彼女らにとってのコミュニケーションなのですね。

こういうものとして刷り込まれてしまっている。

これしか方法が無いと思っている。

だから、こちらが酷いことを言われて怒ったり悲しんだりしているのを見て、逆に彼ら彼女らは

「どうして?笑ってくれるような話をしているはずなのに…。もっと過激なことを言えばいいのかな?」

「なんで笑ってくれないの?!私は一生懸命笑える話をしているのに!!」

と思っているかもしれません。

※120%想像です。

原因として考えられること

私が

「これは母なりにコミュニケーションを取ろうとしているのだ」

と気付いたのは20代半ばの時でした。

それまでは母のことを、

ただ性格がものすごく悪いおばさん(母親に対して失礼ですが)

だと思っていました。

でもある時ふと思ったんです。

多分、母方の祖母はもっと酷かったんだろうな、と。

(小学生の頃から会わなくなったので、祖母のことをあまり考えたことがありませんでした)

 

祖母も笑顔で人を馬鹿にする人です。(存命)

しかも次から次へと、ポンポン言葉が出てきます。

マシンガンもマシンガン。

「一体何丁持っているの?」と思うくらい(笑)

 

うちは親戚づきあいがとーーーーーっても希薄なので、母の妹(=叔母)と20年以上ぶりに会う機会があったのですが、この叔母も喋る喋る。

物心ついてから会っていなかったので、全く知りませんでした。

ただ、叔母の場合は、

『母親(私にとっての祖母)に心をやられないため』

に、あえて身につけたのかな、と感じました。

そしてその場に一緒にいる私の母はというと…。

縮こまって、最低限の返事くらいしかしていませんでした。

 

 

少女には過酷な時代

昭和中期に生まれた長女。

インターネットなんて無い。

精神科に罹るなんて絶対に許されない。

そういう本を図書館で借りるのも気が引けたでしょう。

我慢するしか分からなかった。

父が幼い私に「お母さんはあんなだから、友達がいない」と言ったことがあったので、友達もうまく作れなかった?

 

もって生まれたものもあると思いますが、

母は、同じ世代の他の人たちよりも、きっと生き方や考え方の選択肢が少なかった。

 

私が思春期の頃の喧嘩で、お決まりの「出ていけ!」を言われた後、

「高校をやめて働け!私の頃なんてそんな娘は体を売るしかなかった!今はそういう仕事じゃなくてもあるだろ!」

と泣かれました。

きっと自分の人生を思い返して泣いていた。

 

少女の頃の母は、家で精神的に苦しむか、体を売るかしかなかった。

 

 

ねじれていく精神

祖母は、現役時代は“良い家”が欲しくて働きづめで、家にあまりいなかったそうです。

祖父も仕事で家にいなかったのでしょう。

 

寂しい。

 

だから親が仕事を終えて帰ってきてくれて嬉しい。

でも母親はいつも自分を怒る、馬鹿にする、嘲笑する、他の存在(動物や他人)をこれ見よがしに可愛がる。

(想像ですが、当時、父親=祖父はあまり止めなかったのだと思います)

 

嬉しいのに、悲しい。

 

嬉しいのに、怒りが、憎しみが、無価値感が湧いてくる。

 

そして妹(私にとっての叔母)が産まれ、成長するにつれ母親に対抗できるような性格になっていく。

 

母親は攻撃的な口調で喋り倒す

父親はスルー

妹は負けじと強い口調で発言する

 

母だけが“家族の会話”から取り残されていく。

 

もしかしたらスケープゴートにされてたのかもしれません。(うちでは私がそうです)

疲れ切ってしまった母は、他人に対する期待をやめ、自分の中に閉じこもるようになったのでしょう。

人との上手な接し方が分からない大人の出来上がりです。

母だって頑張って生きてきた

しかし母も友達が欲しかった。

だからきっとたくさんチャレンジした。

でも嫌われた。

それでも頑張った。

「卒業旅行の時の写真だ」と言って見せてくれたものの中には、

母を含めて4人の女の子たちが写っていました。

母が頑張って人と向き合った証です。

友とは本当に宝ですね。

 

 

母の余生

母はコーヒーをよく飲みます。

中毒かのように飲みます。

毎日学校から帰ると、テーブルにコーヒーが置いてあったそうです。

 

母は夜のテレビが大好きです。

だから朝が弱いのでは?と思うけれど。

きっと祖母に制限されていたんだと思います。

 

私は母に付き合わされてバレエを少しだけ習いました。

私をバレエ教室に入れたあと、いつの間にか母も大人のコースをたまに受講していました。

 

今は何をして過ごしてるんだろう。

冠婚葬祭の時に一泊してバタバタして帰るだけなので分かりません。

 

「心屋仁之助ってひと知ってる?」

と聞いたら、

「ああ、でも、あいつはまだまだ甘いな」

なんて、険しい表情で言っていた母。

 

そろそろ『つらい幸せ』じゃなくて、普通の幸せを見つけられてるかな。

 

私には何もできないから。

母や、母のような人たちが、

現世で少しでも心かるく生きられるよう

お祈りしましょう。